03/04/2018

 

日本ではひな祭りだった様子。

もう三月か。二月は物理的に短いので本当に短かった。

 

自分の中で、気持ちがぐるぐると変わり(一種の投げやりさから自分への期待を高める事)、その期待を行動に移すまでにかなりの時間を要した。今でも、悶々としている。

その曇りは、自分に対する過信と、今までのかなり長い期間の、現実世界に対する試行錯誤がどうしようもなく・絶望的にうまくいかなかったという、自分の中のある種の”経験”が体を鈍くするのだろう。

 

体は思考に直結する。逆もしかりですが。

自分が自分であることの確証、信じる正しさ(行動の源)を揺るがすことが起こった時に、一旦思考は停止し(動かなければ何も起こらない、何も)、自分の思考の前段階である、シナプスの動き、その流れを形成する自分の今までの”自己形成”について考えることを強いられた。

その落ち込み部分に、体・思考ともに、はまっていたわけですが、自分の仮説を証明・検証するための現実世界であるわけだから、、、と、うずくまっていた殻が、いつのひかぺリリとはがれ、動けるようになってきた現在であります。

 

とはいうものの、何事に対しても考え、過程に思いを馳せ、その都度、他人を通して検証するために、恥ずかしいやらなんやら、凝り固まった偏見やら、一掃するような傲慢な態度、そんなものは捨て置き、何事も経験、当たって砕けろの精神(いや、砕けるわけではないのですが やはり不意に傷つく可能性はいかなる時にも存在する)は、大切なのではないか、と落ち着いた。

 

悲しいこと・苦しいこと・やるせないこと・ありえないようなこと、たくさんの私の小さな人生では、知り得ないような考えに、たくさん思いを馳せ、かけるべき時に然るべき言葉をかけ、救えなかった過去の自分を救うような気持ちで、自分の中のくぼみをすこしずつ、自分で埋めていくしかないのだな~と思う。

そこに、やれ偽善者だ、結局は自己愛者だ、などという言葉は無視すればいいと思うのですよ。

 

 

自分が勉強してる&したいことについて、これもいろいろ考えなければね、と思いつつ、考えすぎれば鈍るので、高速回転。備えあれば患いなし、下積み時代だと思って、黙々と勉強しようと思う。

 

物を作り続ける事、表現することは、やはり自分の爪痕を世界に残したい要求だと思う。周りの世界の事を自分という媒体を通して、考える事。それを更に小さな世界として自分の外に生み出す。色々な手段がある中で、技能として、時に思考言語として、音楽や写真、絵が働きうることに、改めて感動しておりまするよ。

世界が大好きだな。

 

みんな憎く、敵のように思う時もあるけれど、私は皆がそのような、波を抱えて生きていることを知っているので、、、

 

このように愛があふれ、回路のスイッチが切り替わり、うわ~となり、めんどくさい人間なので、以上の事を考えながら部屋の模様替えをした。